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【競馬ファンにはおなじみ】負けても愛された「ハルウララ」

【競馬ファンにはおなじみ】負けても愛された「ハルウララ」

2025年9月9日。去る秋のこの日、1頭の競走馬が虹の橋を渡り、天国へと旅立ちました。その馬の名は「ハルウララ」。皆さんはこの競走馬の名前を耳にしたことがあるでしょうか。

地方競馬の高知競馬場で新馬戦デビューを果たしたものの引退まで一度も先頭でゴールすることは叶わず、しかしながら負けても負けても懸命に走り続ける姿が話題を呼んで、いつしか日本中を巻き込むハルウララブームを起こした稀有な競走馬です。
メディアミックスコンテンツ「ウマ娘 プリティーダービー」にも登場し、ゲーム内でのキャッチコピーは「連敗しても、くじけない!七転八起ガール 」。走るのがとても大好きな超ポジティブで元気いっぱいのキャラクターとして描かれ、高い人気を集めています。2025年6月にゲームの英語版がリリースされたこともあり、海外にもファンが急増。
そんな矢先での突然の訃報に日本の競馬ファンやゲームユーザーのみならず、海外のハルウララファンも驚きと悲しみに暮れました。SNSのタイムラインには海外からの追悼も多かったといいます。

引退後も愛され続けたハルウララ。その姿を偲びつつ、魅力に迫ってみたいと思います。

負け続けても走り続けたハルウララの記録

【競馬ファンにはおなじみ】負けても愛された「ハルウララ」

生涯成績113戦0勝。1998年11月のデビューから引退レースの2004年8月までの、これがハルウララの競争成績です。

1996年2月27日に生まれたハルウララは小柄で臆病、神経質な牝馬でした。セリ市では買い手がつきませんでしたが、売れ残ってしまった馬でも大化けするかもしれないという期待もあり、生産牧場自らが所有する形で競走馬の道へと進みます。少しでも勝負に成るようにと高知競馬を選びました。しかし気難しさが先立ってなかなか調教もうまくいきません。ハルウララという可愛らしい名前は、せめてのびのびと大らかに育つようにと願いが込められ、ドラマのヒロインに因んでつけられたといいます。

勝てない馬は淘汰される競馬の世界で、連敗を重ねながら走り続けたハルウララ。これは年間に20レースをもこなせる丈夫な体があったからこその結果です。2003年春には引退する話もありましたが、調教師の「走れるうちは走らせてあげたい」という思いから競走馬生活は続行となりました。

また高知競馬場は預託料が安く、ハルウララの出走料でほぼ対応できたのも大きな理由の一つでしょう。「ハルウララが年間15レースほどしか走れない馬なら引退を考えていた。」と調教師は語っています。

このように勝負の場に高知競馬を選んだこと、なるべく走らせてあげたいという調教師の気持ち、レース数をこなせる丈夫な体と、連敗記録が積み上げられていったのはあらゆる要素が揃ったが故の奇跡。その奇跡が見い出された時、ハルウララは図らずも「負け組の星」として周囲を照らし始めたのです。

人気の背景

【競馬ファンにはおなじみ】負けても愛された「ハルウララ」

ハルウララの連敗が続く中で、転機が訪れたのは2003年の夏。そもそも2002年頃に高知競馬場の実況アナウンサーが実況材料として連敗記録に注目し、その話を聞いた高知新聞の記者がハルウララに関する記事を掲載したのが事の発端でした。そして当時廃止の危機にあった高知競馬場の広報担当者がこの記事を目にします。広報担当者が起死回生とばかりにマスコミ各社へハルウララの広報資料を送った結果、毎日新聞全国版にハルウララの記事が掲載され、さらにこの記事が朝の情報番組で扱われたのです。テレビに取り上げられて以降は様々なメディアが注目し、ハルウララの知名度や人気は一気に高まることとなりました。

ハルウララの単勝馬券は当たらないという理由から交通安全のお守りとして馬券を買う人が現れ、ハルウララが出走する日の高知競馬場の入場者数は増加。また1着でゴールした時に見られる騎手が馬の肩を軽く叩いて労うシーンがないということで、肩叩きされない=リストラ防止と解釈されることもありました。
このブームの裏には「にわか」「冷やかし」などネガティブな反応も確かにみられたのですが、バブル崩壊後の不景気が続く世の中で、「馬券を買っているのではない。夢を買っているのだ。」とハルウララの未だ見ぬ勝利に希望を抱く人々が多く存在したのもまた事実です。

それは100連敗目のレースとなった「ネバーギブアップ・ハルウララ百戦記念特別」当日、高知競馬場に足を運んだ5000人を超える観客が物語っているでしょう。この入場者数は実に4年ぶりであり、33社、約120人の報道陣が取材に訪れたといいます。9着に敗れて勝つことはできませんでしたが、この日のハルウララの単勝馬券の売上額は高知競馬場史上最高額となる301万円を記録しました。負けたにも関わらず、レース後には感謝状贈呈セレモニーが行われたといいますから、どれほどの人気があったのか伺い知れます。
そして2004年8月3日、迎えた最後のレースは「ハルウララ・チャレンジカップ」 と銘打ち、ハルウララの健闘が称えられました。

武豊騎手との奇跡の一日

【競馬ファンにはおなじみ】負けても愛された「ハルウララ」

2004年3月の106戦目。この日の高知競馬場は未曾有の大賑わいとなります。何故ならハルウララの鞍上は、なんと中央競馬のトップジョッキーである武豊。目下105連敗中の競走馬と、次々に勝利を手中に収めてゆく天才騎手。運命のいたずらのような巡り合わせは大きな注目を集めました。

当日の高知競馬場の入場者は1万3000人、ハルウララが出走した1レースの馬券売上額は5億1163万円(その日のメインレース黒船賞の馬券売上額は2億2325万円)、1日の総馬券売上額は8億6904万円、いずれも高知競馬史上最高記録を更新。ハルウララの馬券購入専用窓口が設置され、ハルウララの単勝馬券だけでも1億2175万円の売上にのぼりました。関連グッズの売上額は1000万円ほどにもなったといいます。

レース結果は武豊を背に走るも11頭中10着。しかしゴール後、武豊は咄嗟の思いつきでもう一周コースを回り、ハルウララとともにスタンド前をゆっくりと駆けてゆきました。この日の為に集まった観客に、本来なら勝馬が行うウイニングランを見せるという前代未聞の出来事が起こったのです。ぬかるんだコースを走り終えた泥だらけの人馬による106敗目のウイニングラン。この武豊の粋なファンサービスに高知競馬場は大きな歓声と拍手に沸きました。

面白そうだという思いと、地方競馬の助けになればという気持ちからハルウララの騎乗依頼を引き受けたという武豊。勝負師たる所以か、実は勝ちを目指す競馬の本質とかけ離れたハルウララブームを快く思ってはいませんでした。しかしレース当日に目を輝かせた観客が懸命にハルウララを応援する姿を目の当たりにし、「こういう馬がいてもいいんだ。」と思ったそうです。レース後のインタビューでも強い馬が強い競馬をするのが競馬の神髄だとするも、高知競馬場、果ては日本中を熱くさせたハルウララを名馬と認め、「「奇跡は起きませんでした。彼女に勝ちの味を教えてあげられなかったことには悔しさも感じています。けれども、彼女は間違いなく、ファンの心を大きく揺り動かしたスターでした。」と語りました。

まとめ

人は馬に夢を託します。それは閃光の如き疾駆か、長距離を駆けゆく強靭さか、感情を揺るがす白熱の戦いか…。
しかしそのような目を見張る競馬とは無縁である、地方の小さな高知競馬場で走るハルウララがファンの心を掴んだ理由は唯一つ。”走る事へのひたむきさ”だったのではないでしょうか。
勝利する宿命を背負った競走馬において一度として勝てなくとも、競馬ファンを始め、日本中から温かく見守られたハルウララは異質のニューヒロインでした。諦めないその姿に励まされた人がどれほど多くいたことでしょう。
ハルウララがこの世を去ったのち、高知競馬場や繋養先のマーサファームに設置された献花台は色とりどりの美しい花々で埋め尽くされていました。その光景を目にすると愛と優しさに包まれて逝ったのだと胸を打たれます。そしてその愛情はハルウララという馬が語り継がれる限り失われることはありません。
何故ならハルウララのエピソードを知りレースを見れば、幾度となく応援したくなってしまうでしょうから…。

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