長寿の馬たち

競走馬としての華々しい時間は、馬の長い一生のほんの一部に過ぎません。医学の進歩や飼育環境の向上により、現代の馬たちはかつてないほどの長寿を享受し始めています。私たちの想像を超える歳月を生き抜く馬たちは、一体どのような一生を送り、どのような奇跡を見せてくれるのでしょうか。本記事では、馬の平均的な寿命から、世界を驚かせた長寿記録、そして健やかに齢を重ねるための秘訣まで、馬の「生」についてまとめました。
馬の平均寿命

馬の寿命は、一般的に20歳から30歳程度と言われています。これを人間の年齢に換算すると、およそ60歳から90歳前後に相当します。かつては20歳を超えれば「かなりの高齢」とされていましたが、現代の飼育技術や獣医学の発展により、30歳近くまで生きることは決して珍しいことではなくなりました。しかし、この「平均寿命」という数字の裏には、馬が置かれている環境や役割による大きな格差が存在することも忘れてはなりません。
競走馬として現役を退いた後、乗馬や種牡馬として第二の馬生を歩める馬は限られています。野性下では外敵や食糧不足、怪我による自然淘汰があるため、天寿を全うできる個体は極めて稀です。一方で、人間に手厚く保護された環境下にある馬たちは、栄養バランスの取れた飼料、徹底した体調管理、そして迅速な獣医療の恩恵を受けることができます。
馬の寿命を決定づける大きな要因の一つは「歯」の状態です。
馬は歯が摩耗して食べられなくなると衰弱が始まりますが、現代では粉砕された高齢馬専用の飼料があるため、自力で草を噛み切れない老馬でも栄養を摂取し続けることが可能になりました。
また、馬の種類によっても平均寿命には傾向があります。
サラブレッドのような大型の軽種馬よりも、ポニーや中型馬、日本在来馬といった種類の方が長生きする傾向にあります。これは、大型馬ほど心臓への負担が大きく、四肢にかかる自重も重いため、加齢に伴う身体的トラブルが発生しやすいためです。
馬の30歳は、人間で言えば100歳に近い大往生。かつての名馬たちが30歳を超えてなお、穏やかな余生を過ごす姿は、多くの競馬ファンにとって希望の象徴となっています。
世界一長寿の馬

世界で最も長生きした馬としてギネス記録に刻まれているのは、イギリスで18世紀から19世紀にかけて生きた「オールド・ビリー(Old Billy)」という馬です。
彼は1760年に生まれ、1822年に息を引き取るまで、なんと62歳という驚異的な年齢まで生き抜きました。現代の平均寿命の2倍以上、人間で言えば150歳を超えるような、まさに伝説的な長寿記録です。
オールド・ビリーは重い荷物を運ぶ労働馬として生涯の多くを過ごしましたが、50代後半になっても元気に過ごしていたという記録が残っています。
日本における最高齢記録としては、かつて長野県で飼育されていた元競走馬の「シャルロット(競走名:アローハマキヨ)」が有名です。
1979年に生まれた彼は、2019年に惜しまれつつ旅立つまで40歳という年齢まで生きました。軽種馬(サラブレッド)としては日本国内の最長寿記録であり、人間で言えば110歳を超える大往生でした。
シャルロットは現役引退後、乗馬として活躍し、最後は多くのファンに見守られながら穏やかな余生を過ごしました。
これらの長寿馬たちに共通しているのは、生涯を通じて規則正しい生活を送り、適切な運動と深い愛情を注がれていたことです。
オールド・ビリーのような労働馬が過酷な環境下でなぜこれほど長生きしたのかは、現代の科学でも完全には解明されていませんが、遺伝的な要因に加えて、常に体を動かし続けることが循環器系の健康を保った可能性も指摘されています。
記録に残る長寿馬たちの存在は、馬という生き物が持つ潜在的な生命力の強さを私たちに教えてくれます。
長生きしやすい馬の特徴

長寿を全うする馬たちを観察すると、いくつかの共通する身体的・精神的特徴が見えてきます。
まず身体的な特徴としては、前述した通り「歯が丈夫であること」と「脚元が健全であること」が挙げられます。
馬は消化器系がデリケートなため、食べ物をしっかりと咀嚼して消化できる能力が生命線となります。また、巨体を支える脚が最後まで健康である馬は、運動量を維持できるため、筋肉や内臓の衰えを遅らせることができます。
精神面での特徴も非常に重要です。
長寿馬の多くは、性格が非常に「穏やかでマイペース」であると言われます。臆病で神経質な馬は、些細な環境の変化や音にストレスを感じやすく、それが自律神経を乱し、消化器疾患(疝痛)や免疫力の低下を招くことがあります。
一方で、何事にも動じない「図太さ」を持つ馬は、無駄なエネルギーを消費せず、内臓への負担も少ないため、結果として長寿に繋がることが多いのです。
さらに、現代において最も重要な要素は「適切な引退後の環境」です。
引退馬支援団体やファンによる功労馬支援の輪が広がっている昨今、現役時代の激戦を終えた馬たちが、広い放牧地で仲間と共に過ごす「QOL(生活の質)」の高い生活が、寿命を大きく引き伸ばしています。
ストレスのない環境、季節に合わせた馬着の着用、専門的な高齢馬用ケア。これらが揃うことで、馬本来のポテンシャルが引き出されます。
例えば、日本国内でも多くの重賞勝ち馬が30歳前後まで生きる例が増えているのは、ファンからの支援によって実現した「穏やかな引退生活」が、彼らの精神的充足感に直結しているからに他なりません。
まとめ

馬の長寿を考えることは、単に数字上の年齢を追うことではなく、その一頭がどれほど大切にされ、どのような時間を過ごしてきたかという「愛の歴史」を辿ることに他なりません。
かつては20歳が限界と言われた馬の命も、今や40歳、あるいはそれ以上の可能性を秘めたものへと変化しています。
しかし長寿の馬たちが増える一方で、引退馬の余生をどう支えていくかという課題も浮き彫りになっています。
競走馬として役割を終えた後の長い年月を、どのように健康に、そして幸せに過ごさせてあげられるか。それは、彼らから多くの感動をもらった私たち人間に課された、新しい時代の責任でもあります。馬が年を重ねるごとに増していく気高さ、白くなった被毛や、少し垂れた背中さえも、長く生きてきた勲章として美しく映ります。
長寿の馬たちが教えてくれるのは、生きることの力強さと、穏やかな時間の尊さです。一頭でも多くの馬が、その命を輝かせなが、一分一秒でも長く幸せな天寿を全うできる社会を願って止みません。








